株式や相続税の話は、税理士と少しずつ進めている。決算書も整理してもらった。残っているのは、後継者が毎日の仕事を覚える段取りだ。手帳をめくると、取引先との打ち合わせや支払いの承認が並び、どれも社長が1人で決めてきた。
株式や税は専門家に任せられますが、毎日の仕事の中身を知っているのは社長だけです。会社でいちばん「辞められると困る人」は、社長自身ということになります。事業承継の準備でいう業務の見える化は、社長の日々の仕事と判断を、後継者や社員が使える形に書き出しておく作業です。
この記事の結論
- 事業承継の準備で「見える化」というと、決算書や資産の整理が先に挙がりやすい
- 後継者が承継後に仕事を回すには、社長の日々の仕事と判断を書き出す業務の見える化が要る
- 進め方は5つの手順で、まず社長の1か月を30分で書き出す
- 書き出した仕事は「手順」「基準」「人」の3つの渡し方に仕分け、承継の時期から渡す順番を決める
- 書き出しは30点で始め、後継者に使ってもらいながら、社長なしで回る状態まで書き足していく
事業承継の準備、財務の整理だけで足りていますか
財務の整理が進んだ会社でも、承継の準備の途中で次のような状況が起こりえます。
- 決算書や資産の整理は、専門家の力で進んだ。後継者候補に聞かれたのは、毎月の支払いを最後に誰が承認しているのか、値引きをどう決めているのか。答えは「その時の状況を見て」になる
- 取引先の窓口がすべて社長で、誰に何を引き継げばいいのか整理できていない
- 「引き継ぎ資料を作っておいてください」と言われたまま、何も書けずに時間が過ぎている
決算書がそろった時点では、後継者が承継後の月曜日に何をするかはまだ決まっていません。日々の仕事の渡し方が決まるまで、事業承継の準備は途中のままです。
支払いの承認も、取引先の窓口も、引き継ぎ資料の中身も、社長1人が抱えたままです。属人化(仕事が特定の人から離れない状態)は、仕事の渡し方がまだ決まっていない会社で起きる、と私は考えています。
中小企業庁の事業承継マニュアルが示す「見える化」は、主に経営状況の把握です。日々の仕事の渡し方を書き出す作業は、それとは別に要ります。
事業承継で業務の見える化が進まない3つの理由
業務の見える化が後回しになるのは、財務の整理が済むと、承継の準備も済んだように見えるからです。毎日の仕事ほど言葉にしにくく、着手が承継の直前にずれ込むことも重なります。以下の3つの場面は、承継の準備で起きやすい流れを例として書いたものです。
見える化は決算書の整理だと思っている
税理士と財務の整理を終え、社長は「承継の準備はほぼできた」と考えています。ところが後継者が着任して最初の月末、支払いの承認と急ぎの値引きの線引きを、社内の誰も説明できません。
中小企業庁の「経営者のための事業承継マニュアル」(2017年3月)は、事業承継の準備を5つのステップに分けています。同マニュアルは「事業承継ガイドライン」に対応した資料です。ステップ2は事業・資産・財務の3つを把握する作業で、同マニュアルはこれを「経営の見える化」と呼んでいます。
出典:中小企業庁「経営者のための事業承継マニュアル」(2017年3月・PDF)。以下の引用も、すべて同版の記述です。
経営の見える化は、承継の準備に欠かせない作業です。ただ、社長が毎日どう仕事を進め、何を見て判断しているかは、3つの区分のどれにも入りません。月末に誰が何を承認するかも、決算書には書かれていません。

毎日やっている仕事ほど書き出せない
「引き継ぐ仕事を書き出してください」と頼まれ、社長がメモ帳を開きます。10分たっても白紙のままです。毎日やっていることは当たり前すぎて、どこからが仕事なのかが見えません。
判断は、さらに書きにくくなります。数秒で終わるので、決めた理由を本人も言葉にしにくいからです。書き出してみて初めて、何を見て決めていたかが社長自身にも分かります。
引き継ぎを承継の直前にまとめようとする
承継の時期が近づいてから、後継者に口頭で一気に説明します。1回で伝わる量には限りがあり、承継後も社長の携帯電話に確認の電話が続きます。
私の口ぐせの「10言って3しかわからない」は、口頭の説明がどれだけ相手に伝わるかを感覚で言い表したものです。1回の説明で残らなかった7割を埋めるのは、承継後の電話です。
中小企業庁の同マニュアルも、事業承継を着実に進めるには「早めの着手が肝要」としています。業務の見える化も、承継の時期が決まる前に始めれば、後継者と一緒に書き足す機会が増えます。
事業承継の業務の見える化とは|経営の見える化との違い
中小企業庁の5つのステップに当てはめると、業務の見える化の位置はステップ2とステップ3の間です。
同マニュアルが示す5つのステップは、次のとおりです。
- 準備の必要性の認識
- 経営状況・経営課題等の把握(見える化)
- 事業承継に向けた経営改善(磨き上げ)
- 事業承継計画策定
- 事業承継の実行
ステップ2の見える化は、事業・資産・財務の把握です。ステップ3の磨き上げの説明には、業務の流れに無駄がない組織体制を作ることが書かれています。あわせて載っているのが、「各部署の権限、役割を明確にして業務がスムーズに進行する事業の運営体制を整備しましょう」という呼びかけです。
各部署の権限と役割を決めるには、まず社長が今、何を判断しているかを書き出しておく必要があります。業務の見える化は、ステップ2の把握とステップ3の体制づくりをつなぐ作業です。
後継者が承継後に引き継ぐものには、毎回同じ流れで進む手順、状況によって答えが変わる判断、取引先や金融機関との関係があります。渡し方がそれぞれ違うため、書き出したあとの仕分けが欠かせません。

事業承継前の業務の見える化、5つの手順
社長の仕事を書き出したら渡し方で仕分けて順番を決め、後継者に使ってもらって、社長抜きで回るかを確かめます。1回目で完成させようとすると、最初の書き出しで手が止まります。
手順1|社長の1か月を30分で書き出す
直近1か月に自分がやった仕事、下した判断、会った人を、思い出した順にメモへ書きます。書いた項目には、承継の翌月に後継者が触れる仕事かどうかの印だけ付けてください。
時間は30分と決め、手帳とカレンダーをめくりながら書きます。年に1回の仕事が漏れていても、手順3では後回しにする仕事なので困りません。

チェック
30分たったら、メモを次の2点で見直します。
- 承継の翌月に後継者が触れる仕事に、印が付いているか
- 判断の行が1行もない場合は、直近の支払い承認を1件思い出して書き足したか
手順2|仕事を3つの渡し方に仕分ける
メモに書いた仕事の渡し方は、次の3通りです。
- 手順で渡す:毎回同じ流れで回る仕事。手順書に、作業の順番を書く
- 基準で渡す:状況によって答えが変わる仕事。判断の基準と、例外の扱いを書く
- 人で渡す:取引先や金融機関との関係そのものが中身になっている仕事。同席と紹介の計画を立てる
見分けるときは、仕事を1件ずつ取り上げます。まず、その仕事の中身が取引先や金融機関との関係そのものかを確かめます。当てはまる仕事は「人で渡す」です。残りのうち、毎回同じ順で回る仕事は手順で渡し、状況で答えが変わる仕事は基準で渡します。
書きにくいのは、基準で渡す仕事です。値引きなら「長く付き合いのある取引先には5%まで」のように、社長が実際に使っている線引きを数字で書きます。判断の基準を言葉にする考え方は、技能伝承をマニュアル化で進める4つの手順でも取り上げました。

手順3|渡す順番を承継の時期から決める
中小企業庁の同マニュアルでは、ステップ4の事業承継計画に、株式・事業用資産・代表権を承継する時期を書くとしています。渡す順番を決める起点は、計画で決めた承継の時期です。時期が未定なら、仮の時期を置いて並べます。
渡す順番の先頭には、承継の翌月に後継者が必ず触れる仕事を置きます。手順1で印を付けた仕事が、そのまま候補です。毎月の支払いの承認は早めに渡し、年に1回の仕事は後回しでかまいません。
株式・税務・法務の判断は税理士や弁護士などの専門家の領域なので、この手順では扱いません。
手順4|30点で書き、後継者に使ってもらう
手順書も判断の基準も、30点の出来の段階から後継者に使ってもらいます。後継者の手が止まったら、その場で何が足りなかったかを聞き、資料に1行足してください。
同マニュアルは事業承継計画について、「『計画書』を作ることが目的ではありません」と書いています。続く文によれば、経営者と後継者が共通の目的意識をもって計画を作る過程も、事業承継を着実に進める土台です。業務の見える化でも、後継者が書き出しに加わると、社長1人では気づけない抜けが見つかります。
社長も、書き出しから抜けることはできません。判断の中身を話せるのは、社長本人だけだからです。
手順5|社長なしで回る状態を確かめる
社長が会社に出ない日を1日つくり、後継者と社員だけで仕事を回してみます。仕事が止まった箇所を資料に書き足したら、社長が不在の期間を2日、1週間と延ばしていきます。不在の日に止まった箇所は、まだ社長の頭の中にしかない仕事です。
書き足しは、承継の日を過ぎても続けます。手順書がすでに増えすぎて、どれが最新か分からない会社は、先にマニュアル整理の進め方で仕分け方を確認してください。
業務の見える化でよくある失敗
手順どおりに書き出しを始めたあとに、つまずきやすい場面があります。
- 社長の言葉のまま書く:「いつもの」「あの件」と書いたメモは、書いた本人にしか通じない。手順4で後継者に使ってもらうと、通じない言葉が見つかる
- 後継者が一度も使わないまま承継する:書いた人と使う人が別のまま承継の日を迎えると、抜けは承継後に見つかる。手順5で社長が不在の日をつくり、後継者だけで回してみる
- 取引先との関係を「全部社長が知っている」で済ませる:同席や紹介の予定が1件も決まらないまま、時間が過ぎる。手順2で「人で渡す」に入れた相手ごとに、同席する日を予定表に入れる
承継の形で変わる、見える化の重点
事業承継の形は、親族への承継だけではありません。役員や社員への承継もあれば、M&Aなどで社外に承継する形もあります。渡す相手が変わると、先に書き出すことも変わります。
| 承継の形 | 渡す相手の状況 | 先に書き出すこと | 注意点 |
|---|---|---|---|
| 親族内承継 | 社長の子どもなど。社外で働いてきた場合は、社内の進め方を初めて見る | 日常業務の手順と、社内の人の役割 | 会社を外から見てきたか、中で育ったかで、見えている範囲が違う |
| 従業員承継 | 役員や社員。現場の仕事は分かっている | 経営判断の基準(支払い・値引き・採用など) | 現場の手順より、社長しか知らない判断の基準が抜けやすい |
| 社外への承継(M&Aなど) | 社外の経営者や会社。社内の事情を知らない | 手順・基準・人の3つすべて | 社内の暗黙の了解が通じない前提で書く |
表は、渡す相手の状況をもとに私が整理したものです。形によって変わるのは、書き出す順番です。
注意
社外への承継(M&Aなど)の進め方や、会社の評価への影響は案件ごとに異なります。表は書き出しの重点の目安です。個別の判断は、仲介会社や税理士・弁護士などの専門家にご確認ください。
向いている会社・向いていない会社
試しに、社長が1週間休んだ場合を考えてみてください。支払いの承認と値引きの返事が止まるなら、下の向いている会社に入ります。
5つの手順が向いている会社
- 承継の時期が、数年以内に見えている
- 社長しか分からない判断や、社長しか知らない取引先がある
- 財務や株式の整理は専門家と進めていて、日々の仕事の渡し方だけが空白になっている
- 後継者候補が社内にいる。または、まだ決まっていない
先に別の相談が要る会社
- 株式・相続税・法務の整理が最優先の段階にある会社。まず税理士や弁護士などの専門家に相談し、そのあとで本記事の手順に進むのが近道です
- 業務の流れがすでに文書になり、後継者もその文書で仕事を回せている会社。次のテーマは、書き足しを続ける習慣づくりです
- 社長が書き出しに時間をまったく使えない会社。外部の支援を使っても、判断の中身は社長との対話からしか出てきません
進め方を比較する|自社だけ・専門家・外部支援
株式や税の判断は専門家に、社長の頭の中の聞き出しは自社か外部の支援に向きます。承継の準備がどの段階にあるかで選んでください。
| 進め方 | 得意なこと | 業務の見える化での限界 | 向く場面 |
|---|---|---|---|
| 自社だけで進める(社長と後継者で書き出す) | 費用を抑えて、すぐに始められる | 社長の頭の中を言葉にするときに、聞き手がいない | 後継者が社内にいて、書き出しの時間を毎週取れる |
| 公的窓口・専門家に相談する(事業承継・引継ぎ支援センター、税理士・弁護士など) | 事業承継計画・株式・税務・法務の相談、公的な支援の案内 | 主な領域は計画・株式・税務・法務。日々の仕事の書き出し作業そのものは、主な領域から外れる | 承継の形や時期、株式の扱いを決める段階 |
| マニュアル作成支援などの外部支援(株式会社2.1など) | 社長の頭の中の聞き出しと、渡せる形への整理 | 完全丸投げは受けず、社長の参加が前提。株式・税務・法務は扱わない | 計画は進んでいるが、日々の仕事の渡し方が空白のまま |
事業承継・引継ぎ支援センターは、中小機構のサイトで、事業の引継ぎを円滑にするための全国共通の公的サポートとして紹介されています。支援の内容として挙がっているのは、親族内承継支援・第三者承継支援・後継者人材バンクです。
表の進め方を組み合わせれば、株式や税の準備と仕事の書き出しのどちらも止まりません。
事業承継と業務の見える化のよくある質問
業務の見える化は、後継者や承継の形が決まる前から始められます。
Q1. 事業承継の業務の見える化は、何から始めればいいですか?
手順1の書き出しが入口です。社長の直近1か月について、やった仕事、下した判断、会った人を、30分で思い出した順にメモへ書きます。仕分けや順番決めは、メモができてからで間に合います。
Q2. 後継者がまだ決まっていなくても始めてよいですか?
はい、始めてかまいません。帝国データバンクが2025年11月に公表した調査では、全国の後継者不在率は50.1%でした。後継者が決まっていない会社は、珍しくありません。50.1%は後継者がいるかどうかを調べた結果で、承継がうまくいくかどうかを示す数字ではありません。
出典:帝国データバンク「全国『後継者不在率』動向調査(2025年)」
誰に渡す場合でも、渡す中身は社長の仕事と判断です。手順1の書き出しと手順2の仕分けは、後継者が決まる前から進められます。
Q3. 社外への承継(M&A)を考えていても、業務の見える化は必要ですか?
はい。社外の相手には社内の暗黙の了解が通じないため、必要性はむしろ高くなる、というのが私の考えです。手順・基準・人の3つとも、社内の人に渡すとき以上に言葉にしておきます。買い手の評価や価格への影響は案件ごとに違うので、仲介会社や税理士にご確認ください。
Q4. 取引先との関係や社長の人脈は、書き出せますか?
関係そのものは書き出せません。書けるのは、誰と、何の件で、どのくらいの頻度で連絡を取っているかまでです。そこまで書いたら、手順2の「人で渡す」として、取引先ごとに後継者が同席する日と、紹介する場を予定に入れます。
まとめ|事業承継は社長の仕事を渡す準備から
税理士との財務の整理と並行して、社長の仕事を渡す準備を始めてください。今週中のどこかで手帳を開き、直近1か月の仕事・判断・会った人を、30分でメモに書き出します。
メモができたら、手順・基準・人の3つの渡し方に仕分け、承継の翌月に後継者が触れる仕事から渡していきます。そのあとは、後継者に使ってもらい、社長が不在の日をつくって、止まった箇所を書き足す作業の繰り返しです。
会社でいちばん辞められると困る人が社長なら、承継の日を待たずに早く手を付けるほど、後継者と一緒に直せる回数が増えます。書き出しは、先月の支払い承認の日付から拾い始めてください。

