「あの人が辞めたら、この仕事は誰が回すのか」。ベテラン社員から退職の相談を受けた日の夜、そう考えて手が止まった経営者の方もいるのではないでしょうか。引き継ぎに取れる期間は1〜2週間。本人に聞いても「やっているうちに分かるよ」と返ってくるだけで、何を書き残せばいいのかが見えません。
口に出しにくい本音は、その一段奥にあると思います。辞められると困る人がいて、その人に頼っている限り、自分も現場から抜けられない。
結論から先に書きます。
この記事の結論
- 技能伝承の対策としてまず考えるのは、ベテランに再雇用や勤務延長で残ってもらうこと。ただ、それだけでは技能は会社に残らない
- 技能の中身は生まれつきのセンスと違い、言葉にできる判断基準の集合である
- 技能伝承のマニュアル化とは、判断基準を「型」にして文書に残し、後任が同じように再現できるようにすること
- 進め方は4つの手順。対象の技能を洗い出す→言語化しやすさで仕分ける→型に落として30点で公開する→現場で使いながら更新する
- ベテランが在籍しているうちに始め、本人と後任で一緒に更新していく
ベテラン任せの技術、大丈夫ですか
退職の相談を受けて初めて、その人にしかできない作業がいくつあったかに気づく。技能伝承のご相談で、私達がよく伺う流れです。次の3つのうち、1つでも当てはまるものはないでしょうか。
- 困ったときの合言葉が「あの人に聞けば分かる」になっている
- ベテランの退職日は決まったのに、引き継ぎ期間は1〜2週間しか取れていない
- 引き継ぎの中身が、口頭の説明と隣での見学だけになっている
「あの人に聞けば分かる」で回ってきた職場は、その人が長く現場を支えてきた職場でもあります。これまでのやり方を責める理由はありません。ただ、その人が現場を離れる日は必ず来ます。同じことは、いずれ管理職にも、経営者自身にも起きます。
退職が近づいたとき、最初に考える手は、ベテランに再雇用や勤務延長で残ってもらうことでしょう。残ってもらえば、時間は稼げます。けれど、技能を言葉にしておかない限り、延ばした期間が終わったときに同じ問題が戻ってきます。そこで要るのが、技能そのものを型にして残すという発想です。
ここで、この記事で使う言葉をそろえておきます。技能は、仕事を一定の品質で仕上げるための、手の動かし方と判断の仕方の組み合わせ。暗黙知は、本人の頭の中にあって、まだ言葉になっていない知識のことです。技能伝承のマニュアル化は、技能を後任が同じように再現できる「型」にして、文書に残すことを指します。
技能伝承が進まない3つの壁
技能伝承が止まる場所は、だいたい3つに分かれます。教え方の思い込み、時間の不足、始めるタイミングの遅れです。どれも、誰かが怠けているから起きるものとは違います。
見て覚えるものという思い込み
「習うより慣れろ」で、新人をベテランの隣につける。1か月たっても、新人は何を見ればいいのか分からず、手元の作業を眺めて一日が終わる。そんな場面に心当たりはないでしょうか。
私自身、新卒で入った会社では、上司が1回やって見せたあとに「あと行ってきて」と言うだけ、という教わり方でした。見ている側には、どこが肝心で、どこは省いてよいのかが分かりません。見て覚える教育は、見る人が「どこを見ればいいか」を知っている前提でしか成り立ちません。
教える側にも聞く側にも時間がない
ベテランは自分の担当で手一杯。新人も、目の前の仕事を覚えるだけで精一杯です。教える時間は、誰の予定表にも入っていません。「手が空いたら教える」は、手が空く日が来ない限り始まらないままです。
調査の数字にも、同じ傾向が出ています。経済産業省・厚生労働省・文部科学省の「2026年版 ものづくり白書」によると、能力開発や人材育成に問題があると答えた製造業の事業所のうち、62.8%が「指導する人材が不足している」を挙げ、最も多い回答でした。「人材育成を行う時間がない」も45.4%です(元データは厚生労働省「能力開発基本調査」、複数回答)。製造業の事業所を対象にした調査なので、業種を問わない数字として読むことはできません。
出典:経済産業省・厚生労働省・文部科学省「2026年版 ものづくり白書」概要(PDF)
辞める段階になって慌てて聞き取る
退職日が決まってから、慌ててヒアリングを始める。聞く側も何を聞けばいいのか分からず、本人は「いつもどおりやるだけ」と答える。結局、作業の順番を並べた数枚の手順書だけが残った、という話は珍しくありません。
手順書に残るのは、目に見える動作の順番です。たとえば「この条件のときは先に上司へ回す」「この数値を超えたらやり直す」といった判断は、本人が当たり前にやっているので、聞かれない限り出てきません。判断の部分が抜けた手順書では、後任は手順どおりに動いても同じ結果を出せません。
3つの壁の根は同じです。技能が本人の頭の中にしかなく、隣で見せる以外に渡す手段がないこと。だから教える時間が要り、辞める直前になって慌てて聞き取ることになります。見て覚える教育は、新人が隣で見るだけで、覚えられるかどうかが人によって違い、ベテランがいなくなると止まります。反対に、型で伝える教育なら、判断基準が文章になっているので、誰が教えても中身が同じ。本人がいなくても続きます。

技能伝承をマニュアル化する考え方
3つの壁を越える出発点は、技能のとらえ方を変えることです。ここでは、技能を「センス」から「判断基準」へとらえ直す考え方と、技能を3つの層に分けて見る方法を示します。
「あの人はセンスがあるから」。技能伝承の話になると、よく出てくる言葉です。けれど、ベテランの仕事を1つずつ分けていくと、中身の多くは「この条件なら、こうする」という判断の積み重ねでできています。技能の中身は、言葉にできる判断基準の集合です。
判断基準を言葉にしてまとめたものが、私の言う「型」です。私はマニュアルを、守破離の「守」にあたるものだと考えています。守破離は、教えられた型をまず守り(守)、次に型を崩して工夫し(破)、やがて型から離れて自分のやり方を作る(離)という、上達の段階を表す言葉です。型があるから、後任は安心して工夫の段階へ進めます。技能伝承のマニュアル化のゴールは、ベテランの技能を「守」の型にして、会社に置いておくことです。
では、実際の対策はどうなっているのか。同じ白書で紹介されている、労働政策研究・研修機構(JILPT)がものづくり産業を対象に行った調査では、技能継承を進める取組として最も多かったのが「再雇用や勤務延長などにより高年齢の従業員に継続勤務をしてもらう」で、54.8%でした。従業員の規模にかかわらず、この取組が最多です。
出典:経済産業省・厚生労働省・文部科学省「2026年版 ものづくり白書」概要(PDF)(資料:労働政策研究・研修機構「ものづくり産業における人材確保・定着と技能継承に関する調査」2026年5月)
ベテランに残ってもらえば、引き継ぎの時間は稼げます。ただ、残ってもらっている間に技能を言葉にしなければ、技能は本人と一緒に会社を離れます。延ばした期間の使い道は、型づくり。
技能を3つの層に分けて見る
私達は業務を3つの層に分けて整理しています。マインドセット(なぜその判断をするか)、ワークフロー(どういう順番・流れで動くか)、オペレーション(具体的に手や道具をどう動かすか)の3つです。
ベテランに話を聞くと、出てくるのはたいていオペレーションの話です。手の動かし方は目に見えるので、説明しやすいからでしょう。けれど後任が一番困るのは、想定外のことが起きたときの判断のほうです。判断の理由にあたるマインドセットの層は、本人も意識していないことが多く、聞き取りでいちばん抜けやすい層です。

ポイント
ベテランへの聞き取りでは、層ごとに聞く言葉を変えます。
- マインドセット:「なぜ、そうするのですか」
- ワークフロー:「その前と後には、何をしますか」
- オペレーション:「手元では、何をどう動かしていますか」
技能伝承マニュアル化の4つの手順
技能伝承のマニュアル化は、次の4つの手順で進めます。入口は技能の洗い出し、出口は現場での更新です。手順ごとに、誰が何をするかを書きます。
- 対象の技能を洗い出す
- 言語化しやすさで仕分ける
- 型に落として30点で公開する
- 現場で使いながら更新する

手順1|対象の技能を洗い出す
洗い出す人を選ぶ基準は2つあります。1つは、一番早く辞める予定かどうか。もう1つは、その作業ができる人が社内に1人しかいないかどうか。どちらか1つでも当てはまる人から、順に洗い出します。両方に当てはまる人が最優先です。
やり方は、上司と本人の2人で、本人の1週間の仕事を書き出すだけです。作業ごとに「ほかに誰ができるか」を横に書き、名前が1つも入らない作業に印をつけます。印がついた作業が、技能伝承の対象です。最初の洗い出しは30分で切り上げてください。漏れは、手順4の更新で拾えます。
手順2|言語化しやすさで仕分ける
洗い出した作業の中身を、2種類に分けます。力加減やタイミングのような「感覚的な動作」と、「この場合はこう対応する」という線引きにあたる「判断基準」です。
判断基準は、聞き方しだいで言葉になります。私がヒアリングで使うのは、数字を先に出して当てにいく聞き方です。以前、靴の革張りの職人さんにヒアリングしたときも、感覚を尋ねる前に数字を先に出して聞きました。どの職場でも使える聞き方にすると、たとえば「この確認は何分おきにしていますか。5分ですか、10分ですか」となります。本人が無意識に使っている線引きが、数字への訂正として出てきます。
感覚的な動作は、文章だけでは伝わりにくい部分です。写真や動画を添えるなら、この部分に使います。
どちらから手をつけるかは、引き継ぎの緊急度と組み合わせて決めます。急ぎの作業のうち、言葉にしやすい判断基準が最優先です。急ぎだけれど感覚的な動作が中心の作業は、本人がいるうちに撮影し、その作業の中の判断基準だけを先に文章にします。急がない作業は、手順4の更新の場で順に書き足せば十分です。引き継ぎの残りが2週間しかないなら、撮影と判断基準の書き出しだけに絞ります。
仕分けは、聞き取りを受け持つ後任か管理職が行い、本人に確認をもらいます。

手順3|型に落として30点で公開する
型に落とすのは聞き手(後任か管理職)の役目です。本人は書かれた型を読んで、判断が合っているかを直します。1つの作業ごとに、手順と、そのとき使う判断基準を並べて書く形が一例です。書き上げたら、「それ、新人にできますか?」と自問してください。ベテランの言葉のままでは、後任が同じ判断を出せない箇所が残ります。
最初から完璧を目指すと、書き終わる前に本人の退職日が来てしまいます。私がいつもお伝えしている目安は、最初は30〜40点。粗い型でも、本人が在籍しているうちに現場へ置くことを優先します。置き場所は、作業する人がその場で開ける場所です。
チェック
30点の型を公開する前に、次の3つを見ます(目安の一例です)。
- 作業の手順が、上から順に並んでいる
- 迷いやすい場面の判断基準が、1つ以上書いてある
- 書いた人と、質問を受ける人の名前が入っている
手順4|現場で使いながら更新する
公開したら、後任がその型を見ながら実際に作業します。迷った箇所や、書いてあるとおりにやって結果が違った箇所に印をつけ、本人と一緒に書き足す。この繰り返しで、30点の型が少しずつ埋まっていきます。
私がお伝えしているマニュアルサイクルは、「可視化→仕組化→習慣化」の3段階です。可視化は、技能を文字にする段階。仕組化は、書いた型を教え方や日々の作業に組み込む段階。習慣化は、更新を繰り返して現場の当たり前にする段階です。手順3で公開した時点は、まだ可視化の段階にいます。
更新の場は、一例として月1回15分、本人と後任と上司の3人で型を見直す時間を予定表に入れる形です。マニュアルは生き物なので、書き足すたびに現場の実態に近づきます。
技能伝承マニュアル化でよくある失敗
手順どおりに進めても、つまずきやすい場所はあります。私達が支援の中で見てきたのは、次の3つの失敗です。
- 退職直前に慌てて聞き取る:断片的な手順書だけが残ります。退職が数年先でも、手順1の洗い出しだけは今のうちに済ませておきます
- ベテラン本人に執筆を任せきりにする:本人は日々の担当で手一杯で、書く時間が取れずに止まります。聞き取りと書く作業は後任や管理職が受け持ち、本人には確認をお願いします
- 一度作って満足する:更新されないまま現場とずれ、やがて誰も開かなくなります。公開と同時に、次に見直す日を決めておきます
ベテランの技能は、会社の仕事の中で身についたもの。技能を言葉にして残す段取りを組み、そのための時間を確保するのは、経営側の役目です。本人の協力が得にくいと感じたときも、まず本人の予定に聞き取りの時間が入っているかを見直します。
注意
「時間があるときに書いておいて」と本人に頼む形は避けます。通常の担当を持ったままでは、書く時間は生まれません。聞き取りの日時を先に予定表へ入れ、書く作業は聞き手が受け持ちます。
向いている会社・向いていない会社
判断基準から型を作るこの進め方が合う会社と、次のテーマへ進んでよい会社を分けます。自社がどちらに近いかを確かめてから、着手する範囲を決めてください。
この進め方が向いている会社
- 特定の社員にしかできない作業がある
- 退職や異動の予定が、数年以内に見えている
- 一部の作業手順を、すでに書き出したことがある
この進め方が向いていない会社
- 技能の大半がすでに言葉になって共有されていて、残る課題は運用の定着だけ
技能の言語化が済んでいる会社が次に取り組むのは、更新を習慣にすることです。マニュアルサイクルでいえば、習慣化の段階から手をつけます。
技能伝承の進め方を比較する
技能伝承の進め方は、大きく3つに分けられます。ベテランに残ってもらう方法、作業を動画に撮って残す方法、判断基準を言葉にして型にする方法です。3つの観点で並べます。
| 比較項目 | 再雇用・勤務延長に頼る | 作業の動画だけに頼る | 判断基準を型にする(マニュアル化) |
|---|---|---|---|
| 引き継ぎにかかる期間 | △ 本人が残る間は先送りできるが、退職時に一から始まる | ◯ 撮影は作業1回分の時間で済む | △ 言葉にするまで時間がかかる。本人の在籍中に始める |
| 新しく入った人の再現性 | △ 隣で見て覚える形のまま | △ 動作は伝わるが、判断の理由は見る人で受け取り方が変わる | ◎ 判断基準が文字になっている |
| 担当者が変わっても続くか | × 本人がいなくなると止まる | ◯ 映像は残るが、撮り直さないと現場とずれる | ◯ 更新の担当と日を決めておけば続く |
動画を否定する理由はありません。力加減やタイミングのような感覚的な動作は、文章より動画のほうが伝わります。ただ、判断基準まで動画だけに頼ると、見る人によって受け取り方がばらつきます。動作は動画で、判断基準は文章で残し、再雇用や勤務延長で延びた期間をその作業に充てる。3つを組み合わせるのが、現実的な進め方です。
判断基準を言葉にする作業は、本人への聞き取りと書き直しを何度も繰り返すので、通常業務と取り合いになりがちです。私達のマニュアル作成支援では、マニュアルライターが月1回からの聞き取りを受け持ち、書き起こしまで進めます。
私達は創業2014年から12年、650社を支援してきました。私自身は内閣官房「業務の抜本見直し推進チーム」のアドバイザーとして、霞ヶ関の全府省・対象1,440課の標準化に関与しています。
技能伝承のよくある質問
技能伝承のマニュアル化を検討している方から出やすい質問を4つ取り上げます。着手する順番、型の質、AI導入との関係、製造業以外での扱いです。
Q1. 技能伝承は何から手をつければいいですか?
一番早く辞める予定の人、または社内でその作業ができる唯一の人の技能から手をつけます。上司と本人でその人の1週間の仕事を30分で書き出し、「ほかに誰ができるか」が空欄の作業に印をつける。そこまでが最初の一歩です。
Q2. 技能をマニュアルにすると、質が落ちませんか?
最初の版だけを見れば、ベテラン本人の仕事には届きません。そこで止めずに、後任が迷った箇所を本人と一緒に書き足していきます。書き足すたびに、型はベテランの判断に近づきます。型ができた後は、後任がその型を土台に、自分の工夫を足していく番です。
Q3. 技能伝承のマニュアル化はAI導入にも関係しますか?
関係します。私達はHPのトップに「AI導入前に、マニュアル導入。」と掲げています。AIに仕事を任せようにも、どの場面でどう判断するかが言葉になっていなければ、任せる中身がありません。技能を判断基準の型にしておくことは、将来AIを使うときの土台にもなります。
支援の例を1つ挙げます。
- 支援先:従業員2万人規模の大企業
- 対象:ベテラン数人が持っていた暗黙知
- 成果物:186ページのマニュアル
- その後:AI導入の下地になった
Q4. 技能伝承は製造業だけの話ですか?
製造業だけの話ではありません。この記事で引いた数字の出どころは製造業の調査ですが、特定の人にしか分からない判断基準がある、という構造は事務の仕事や接客の現場にもあります。たとえば、請求の例外処理を1人のベテランだけが分かっている事務の職場も、技能伝承の対象です。
まとめ|技能伝承はマニュアル化で型にして残す
ベテランに再雇用や勤務延長で残ってもらえば、引き継ぎの時間は稼げます。ただ、技能は判断基準の集合なので、言葉にして型にしない限り、本人と一緒に会社を離れます。技能を洗い出す、言語化しやすさで仕分ける、30点の型で公開する、現場で更新する。この4つの手順で、延ばした期間を型づくりに使ってください。
今日からできることは1つです。一番早く辞める予定の人と30分だけ時間を取り、その人の1週間の仕事を書き出してください。「ほかに誰ができるか」が空欄になった作業が、最初に型にする技能です。

